歴史
縄文・弥生時代
利根川流域に数多くの遺跡が見られる。千葉市にある加曾利(かそり)貝塚などが有名である。
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律令時代
地殻変動で半島先端部が隆起、上総の山稜地帯はその名残である。古くは総(ふさ)=麻がよく育ったことから、総国と呼ばれた。やがて、畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となった。地図上は北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、房総半島へは安房国へ行く舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためである。この名残として、房総半島には、勝浦や白浜など、南紀と共通する地名が見られる。通常、日本国内のにあった68の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国(※安房国は中国。) |
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と延喜式に記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていたという。
718年に上総国の一部が分かれて、安房国となった。一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び安房国が設置された。日本書紀に、日本武尊の武勇伝として上総国に上陸する場面が見られる。
平安時代から室町時代まで
平安時代には、土着した平氏系武士が勢いをふるったが、平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、房総は一時荒廃した。この荒廃の中から台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫である千葉氏である。
源頼朝が伊豆から流れてきて、千葉氏を味方につけて復権の礎となった。千葉氏の当主・千葉常胤はこの功績によって、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉・室町時代にかけて、千葉氏は房総の支配者となった。しかし、北条氏を支持したため豊臣秀吉によって千葉氏は断絶。
戦国時代から江戸時代まで
戦国時代には安房の里見氏が勢力を伸ばしたが、江戸時代になって、里見家は改易となり、断絶した。
江戸初期には幕府が開かれると徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿が造られた。
江戸時代には、江戸に近いことから大きな大名は置かれず、天領・旗本領・小大名領に細かく分割された。江戸前期には佐倉惣五郎が百姓一揆を指導したとされ、後に伝説的義民となった。堀田家が治めた下総佐倉藩(11万石)は房総で最も大きな大名で、幕末にはアメリカとの交渉にあたった老中の堀田正睦(まさよし)が出た。それに次ぐ下総関宿藩から出た久世広周も幕末に老中を務めている。高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩以上が下総国、上総国には鶴牧藩、
請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩があり、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩が置かれた。
また、明治維新に徳川家達の駿府移封に伴い、移封した藩があり、廃藩置県まで続いた。
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