歴史
詳細は日本の歴史を参照。またアイヌと琉球地域に関して日本の領土になったのが明治以後であるためそれ以前の歴史には違いがあるので、各々の項を参照のこと。
建国年と皇紀
『日本書紀』には、辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)にカムヤマトイワレヒコ(和風諡号「神日本磐余彦火火出見天皇」の仮名の音。漢字の諡号は神武天皇)が即位したとあり、これを日本建国と位置づけているが、現代では歴史的事実を反映したものではないとの説
が有力である。しかし、未だ史学者の間でも賛否両論があり、こんにちにおいても結論は出ていない。明治5年11月15日
(旧暦)(1872年12月15日)に、西暦紀元前660年が神武天皇即位紀元の皇紀元年とされ、明治6年(1873年)1月1日から使用された。
現代の日本では紀年法としてはグレゴリオ暦(西暦)もしくは元号が使われることが多く、皇紀はほとんど使用されていないが、一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書などには記載されている(明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件)。なお、東北地方では、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命したことをもって日本の建国としている(中尊寺文書、平泉雑記など)。 |
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国号の成立から現在まで
「日本」という国号が成立したのは701年前後と推定される。日本国号の起源については未だに定説は見られない。『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』などに記された遣隋使の報告には「倭国と日本国は別の国であり、併合して日本国となった[9]」とあるが、これは一般には天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると解釈されている。平安時代の貴族の会話[要出典]の中で、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方にあることをもって日本としたと説明されており、畿内においては東方の飛鳥地方を日本(ひのもと)と呼び、更には朝廷から東方にある関東地方や東北地方を長らく「日本」と呼んでいたことからも、この説が妥当であるとする見解がある。ただし、景行期に東海地方以東の蝦夷の国を「日高見国」と呼んでいたことから反論も根強い。
朝廷は8世紀から拡大策を強め、東北の蝦夷や九州の隼人などを服従させることにより、徐々に拡大を続けた。これ以後の主な対外戦争には、白村江の戦い、刀伊の入寇、元の蒙古襲来、応永の外寇、文禄・慶長の役などがある。この間に「日本」と呼ばれる地理的領域は北上し、日本は東北沿岸から津軽、更には北海道東部のアイヌ部族の呼称として移動していった。またモンゴル帝国において、ようやく大和朝廷の対外的呼称が「日本」に固定されるようになり、権力者層に次第に日本意識・日本人意識が貫かれるようになった。18世紀になると、シャクシャインの乱やロシア帝国との接触で北方への関心が強まり、アイヌおよびロシアへの他者意識として日本観・日本人観が江戸の庶民に定着していった。これに応じて日本の指す領域は南下し、アイヌ居住地である蝦夷ガ島(北海道)以南が日本と意識されるようになった。19世紀になるとアメリカ合衆国始めヨーロッパ各国への他者意識として日本観・日本人観がいよいよ定着し、現代の日本観・日本人観にほぼ一致するようになった。
19世紀半ば以降、欧米列強の国家形態に触発される形で、天皇を中心とした近代国家を創出しようという試みがおこり、朝廷、幕府、藩によって分割統治されていた時代が終焉、近代的な意味での「日本国」が成立した。明治維新と呼ばれる近代化政策が実行され、1871年の廃藩置県と翌1872年の琉球処分を通じて、ほぼ現在の領土が確定した。さらに大日本帝国憲法を書き上げ、1889年に施行され、翌1890年に二院制からなる議会政治を作り上げた。その後日清戦争と日露戦争に勝利した。20世紀前半には台湾や朝鮮半島を併合した。第一次世界大戦では連合国側として参戦、南洋諸島の委任統治を行った。大戦後の自由な空気の中で、様々な政治的改革も試みられ、普通選挙の実施、政党内閣の慣例化など大正デモクラシーと呼ばれる政治運動が起こった。1930年代になると社会の動揺から、軍部の発言力が増大し、満州事変を通じて事実上の傀儡政権として満州国(中国東北部)が建国されると、大陸との摩擦が深まり、ついには日中戦争へと発展した。日本軍は東南アジアのほぼ全域にまで進出し、外交においては既に欧州において始まっていた第二次世界大戦の枢軸国側と協調した。結果米国を中心とする連合国と決定的に対立、太平洋戦争(閣議決定では、支那事変(日中戦争)を含め対米英戦争を大東亜戦争と呼称すると決定した)へと発展した。
1945年に連合国のポツダム宣言を受諾。無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は日本を含む枢軸国の敗北で終結した。この戦争では、東北アジアと太平洋で戦場になった国々、および日本において、多数の人々が犠牲になった。日本の軍隊はアジア太平洋の多くの地域で軍民ともに多数の人々を殺傷した。日本の国土も首都東京を始め空襲により焦土と化した。また、この際、広島と長崎に原子爆弾が使用されている。敗れた日本は、それまで拡大した領土の大半を失い、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の占領下に置かれた。
文字通り各国の総力戦となったこの戦争の遂行過程で様々な戦争犯罪があったとされ、現在も世界中で様々な議論を呼んでいる。(日本が加害者とされるものは「日本の戦争犯罪」、被害を受けたものは「戦争犯罪」等の項を参照)
第二次世界大戦後の日本は、軍国主義の否定によって再出発した。その拠り所が日本国憲法である。日本国憲法は1946年11月3日に大日本帝国憲法を改正する形で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のもとに公布され、1947年5月3日施行された。日本国憲法では、天皇を国の統合の象徴とすることや主権が国民にある立憲民主制国家として再生させること及び、紛争の解決手段としての戦力の保持および交戦権を放棄することなどが示され、国号も日本国と改めた。
1950年に隣国朝鮮半島で、朝鮮戦争が勃発した。GHQの指示により、警察予備隊(後の自衛隊)が設立され、事実上の再軍備の道を辿った。1951年にサンフランシスコ平和条約を締結し、日本と連合国は講和した。1952年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により占領は終了し、独立を回復した。独立回復後の日本はその基本理念として一切の軍国主義を否定し、アメリカ合衆国とは同盟関係を結んだ。
1955年に、保守政党である日本民主党と自由党が合同し55年体制のもとで長期安定政権を確立した。その後、日本は高度経済成長を迎え、経済は急速に発展した。東京オリンピックや日本万国博覧会の開催は、戦後の日本が国際社会に復帰することの象徴にもなった。1968年、1972年には日本の領土とされながらも、施政権を喪失していた小笠原諸島と沖縄の施政権が米国から返還された。
現在では、発展途上国のための支援ODAなどを行い、世界の平和や相互理解に一定の役割を果たすまでになった。近年は先進国として国際紛争解決のために国連平和維持軍の一員として、日本が軍隊派遣をするかどうかが議論の対象となっている。しかし現在の日本国憲法下では軍事力の放棄が記されていることなどのため、自衛隊の派遣については日本国内で賛否が分かれている。現在は憲法改正の動きなども見られ、活発な議論が行われている。
1999年8月13日に国旗及び国歌に関する法律(通称:国旗・国歌法)で、国旗は日章旗(通称:日の丸)、国歌は君が代と定められた。
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