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江別市(えべつし)は、北海道石狩支庁管内にある市。札幌市の東に隣接し、同市のベッドタウンとして急速に人口を伸ばし、1990年には室蘭市を抜いて全道9位の人口となった。しかし近年は、札幌市の都心回帰や大麻地区の高齢化により人口が微減している。

地理

市域は石狩平野のほぼ中央で、石狩川の両岸にまたがるが、主な市街地は鉄道や国道の通る川の南側にある。南東の南幌町との境には石狩川の支流・千歳川が流れる。
札幌市・北広島市との境にある野幌丘陵には2,000haにも及ぶ野幌森林公園があり、道立自然公園に指定されている。森林公園は現地では『原始林』とよばれていて、その一部は原始の時代から手つかずの状態で保存されている。最高地点である南端部の丘陵でも標高93mで、その他は低地が広がっている。

気候は北海道では温暖な部類に入るが、石狩湾と太平洋を吹き抜ける風の通り道にあたり、一年を通じて風が強い。夕張川、千歳川、石狩川の合流地点に位置するために、しばしば水害に見舞われた。特に7月から8月にかけて豪雨があることが多く、1981年の大水害の際には1日に204mmという降水量も記録している。
 
  • 河川 : 石狩川、旧石狩川、夕張川、幌向川、旧幌向川、清真布川、豊幌川、千歳川、早苗別川、神田川、志文別川、篠津川、篠津運河、豊平川、旧豊平川、世田豊平川、厚別川、野津幌川

歴史

北海道の先史を知る上で江別は重要な地の1つである。続縄文時代には、弥生文化の影響を受けた北海道南西部中心に見られた「恵山文化」と北海道東部にあった文化が、江別を含む石狩低地帯で約1800年前の頃に融合したとされる。江別では後期北海道式薄手縄文土器(後北式土器)が多く出土し、日本先史の権威である山内清男はこれを江別式土器と名づけ、この土器が使われた文化を「江別文化(後北文化)」と呼んだ。なおこの江別式土器は東北地方でも多く出土する。

その後、7世紀から9世紀ごろに築かれた「江別古墳群」もこの地で発見されている。この古墳は現在発見されている古墳のうちで最も北に位置し、東北地方北部の様式に似ることから、本州と北海道との交流を知る上で重要な資料である。

現在の江別市に和人が定住したのは、1867年に通行屋(旅行者のために宿泊、休憩の場を提供した)の立花由松が住んだのが最初とされる。1871年、宮城県人21戸76名が対雁(ついしかり)に来たのが集団入植の始まりであるが、彼らのほとんどは別の地に再入植し、跡地は榎本武揚の農場となった。1876年には、樺太・千島交換にともなって、樺太アイヌが対雁に移住させられた。

1878年8月に江別太(現在の王子地区周辺)に屯田兵村が置かれ、同年11月に江別村が誕生した。1881年にも養蚕を営む屯田兵が入植したが、これらの試みは成功しなかった。しかし1882年、官営幌内鉄道が開業し江別駅が設けられると、石狩川水運と鉄道輸送の結節点として市街地が形成された。その後あらためて江別兵村、野幌兵村が設けられ、1884年以降3年間にわたり屯田兵432戸が入植し、開拓事業にあたった。また屯田兵以外の人々による開拓も多かった。中でも大きな成果を挙げたのは新潟県人による北越殖民社で、1886年に江別太へ17戸、1890年には野幌南部へ204戸の入植を果たし、稲作を成功させた。

明治の中ごろになると工業が芽生え始めた。1891年に江別太で煉瓦工場が操業した。ほどなくして北海道炭礦鉄道により野幌煉瓦工場が作られ、また鉄道資材の生産も行われた。1897年に市街地の大半を失う火災にも見舞われたが復興をとげ、1908年には富士製紙会社北海道工場(現:王子特殊紙江別工場)が操業を開始。労働者も多く住むようになり、1916年には町制を施行した。

第二次世界大戦後には引揚者を積極的に受け入れ、また戦後復興にも力を注ぎ人口は伸びていった。1953年5月23日に市街地の半分を焼く大火を出しながらも、翌年には市制を施行した。1963年に東野幌に炭鉱離職者団地、翌年道営大麻団地が建設されると宅地化が進行、札幌の衛星都市としての性格が強まった。

 
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