高崎市(たかさきし)は、関東地方の北西部、群馬県南西部の都市。市域の大部分が旧群馬郡。
平成の大合併により、人口が県内一となった。2001年から特例市の指定を受け、2011年に中核市移行予定。2000年に市制100周年を迎えた。2008年、全国都市緑化フェアが高崎市と前橋市を中心会場、伊勢崎市と太田市をサテライト会場として開催される。(第25回全国都市緑化ぐんまフェア高崎会場公式ホームページ)
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概要
古くから交通の要衝で、中山道(国道17号高崎以南・国道18号)と三国街道(国道17号高崎以北)の分岐点、関越自動車道と北関東自動車道の分岐点、上越新幹線と長野新幹線の分岐点ともなるなど、全国有数の交通拠点都市である。新幹線の停車する高崎駅は県庁所在地前橋市の玄関口となっており、群馬県の交通の中心地である。平成の大合併では、群馬町、箕郷町、榛名町、倉渕村、新町を編入し、県内一の人口となった。また、都市圏人口は約53万人で、都市圏人口も県内一の規模であるなど、非県都の有力都市である。 |
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江戸時代には高崎藩の城下町として、「お江戸見たけりゃ高崎田町」と謳われる繁栄を見せ、現代でも群馬県一の商業都市として盛えている。又、高崎郊外に位置する問屋町は、日本初の郊外型問屋団地である。
政治的には、自民党の総理大臣級の政治家を多く出しており、「自民党王国」としても有名である。
日本一のだるまの産地であり、群馬交響楽団が本拠地を置く数少ないオーケストラのある地方都市である。また、高崎フィルム・コミッションにより、ドラマ・映画・プロモーションビデオ等の撮影を誘致しており、しばしば高崎の市街地や学校などが登場する。
都市名の由来
当初、高崎の地は「和田」と呼ばれていた。「高崎」という都市名の由来については、以下の伝承がある。
高崎城が和田城の跡に完成した際に、城主である井伊直政は、当地を「松ヶ崎」という名前に改めようと思った。
そこで、その件を常日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職である白庵に話した。白庵は「もっともなことではありますが、諸木には栄枯あり、物には盛衰があるのは珍しいことではありません。殿様が、家康様の命を受けて和田の地に城を築いたのは権力の頂点に立った大名に出世されたからであります。そうであれば『成功高大』の意味を採って『高崎』と名付けた方がよいのではないでしょうか?」と言った。
白庵の含蓄ある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに「和田」を「高崎」と改めた。そして白庵が箕輪から転住した龍広寺の山号に、「高崎」の2字を与え感謝の意を表した。
高崎と群馬県庁
廃藩置県当初、群馬県庁は高崎に置かれていた。しかし、徴兵令が発布されると、高崎城に鎮台の分営が置かれる事になり、兵部省(陸軍)の管轄下となったため、県庁は追われるように前橋に移転した。1873年に、群馬県が入間県と合併して熊谷県となった後、1876年に分割されて再び群馬県となると、県庁は再び高崎に置かれた。
しかし、仮庁舎が置かれた場所は狭く、各部署があちこちに散在する状態であった。こうした中で、前橋市民が県庁の誘致に乗り出した。県職員の住宅や、県職員の子弟の学校を造る事が県庁移転の条件とされていたが、住民たちから多くの寄付金を集める事に成功し、必要施設は建築された。当時の前橋は、生糸貿易で富を築いており、県庁の誘致はその経済力によるほか、歴史的に一貫して前橋が群馬県の中心都市であったこと、高崎市が群馬県内で西南に寄りすぎているためと思われる。
そして、1881年に、群馬県庁が正式に前橋に置かれる事が、明治政府から発表された。この決定に怒った高崎市民は、猛烈な県庁奪還運動を行ったが、終に県庁は高崎に還らなかった。
この経緯から現在でも、高崎市民には前橋に対する対抗意識を持つ人が多い。
近年の公示地価では、商業地・住宅地の標準・最高、いずれも、高崎市が県内第一位である。
「平成の大合併」について
2006年1月23日、箕郷町・群馬町・新町・倉渕村の4町村を高崎市に編入し、人口は315,515人(2004年10月1日時点の5市町村の合計)となり、中核市への移行要件を満たすことになった。
1997年以来、中核市移行を目指して周辺市町村との合併を模索してきたが、2003年12月に群馬町・新町・倉渕村・吉井町と任意合併協議会を設置し、合併協議が本格化した。その後、吉井町は法定合併協議会設置案を否決して協議から離脱したが、箕郷町は住民投票の結果賛成多数となった事を受けて、群馬町・新町・倉渕村とは別個に、高崎市との法定合併協議会を設置した。5市町村は同時合併を目指して協議会を合同で開き、2005年2月8日に合併協定の調印に至った。
一方、榛名町では合併慎重派の町長と推進派が多い町議会の対立などで合併協議に加わらなかったため、旧倉渕村は飛地となった。また、旧新町も藤岡市などとの合併協議から離脱し、隣接していないが繋がりの深い高崎市との合併を選択したため、飛地となった。
榛名町ではその後、2005年11月に合併推進派の住民が約7900名の署名を集めて慎重派の町長の辞職を請求し、町長はリコール投票前に辞職、これを受けた町長選挙の結果、2005年12月に合併推進派の町長が就任した。一方、慎重派の住民が起こした町議会リコールの住民投票でも「解散反対」が多数を占め、その後2006年2月に高崎市と榛名町は合併協議会を設置した。
高崎市と箕郷町・群馬町・新町・倉渕村との合併協定項目を榛名町が追認する形を取ったため、5月8日には合併協定調印にこぎつけ、両市町議会、群馬県議会の議決を経て、7月13日には総務大臣が官報に告示し、これをもって高崎市と榛名町の2006年10月1日の合併が決定した。
この合併により、旧倉渕村域の飛地状態が解消され、高崎市の人口は約34万人となり、史上初めて前橋市の人口を上回り、群馬県一の都市となった。
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